2019.10.10

7代目編集長 大塚公平
(1994年39号-2002年4+5号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

少年誌の常識にとらわれない刺激的な作品を数多く掲載した7代目編集長・大塚氏!!
アウトローを貫いたキラーな言葉の数々に酔いしれろ!!

新人時代に言われた強烈な一言 
一人だけ仕事したくない男がいる

『週刊少年チャンピオン』50周年ということで歴代の編集長からお話を聞いています。
いろんなタイプの編集長がいただろ? オレは四代目までスタッフの一人だったけど、一番強烈だったのは亡くなった人だよ。オレも含めてあの人には誰も勝てない。言わずと知れた壁村耐三だ。オレなんていまだに怒鳴られてる夢を見る……。

え? いまだにですか⁉ 壁村さんといえば、『週刊少年チャンピオン』2代目&5代目編集長にして、歴代最大部数を成し遂げた伝説の編集長です。強烈な方だったんですね。
ああ、出会いも強烈だった。オレは入社して『冒険王』って雑誌に配属されたんだが、あるとき編集長が壁村耐三に代わったんだ。まだ新人のオレは徹底的にやられた。一言で言えばシゴかれた。まあ、オレが生意気だったんだと思うけど、マンガ雑誌ってのはこういうもんだと叩き込まれたよ。

それだけ聞くと部下思いのいい上司な気がします。
“徹底的”のなかにはマンガ作りに直接関係ないものもあった。怪獣の着ぐるみに入れ、とかな。

編集者がですか?
そうだ。その頃は怪獣番組ブームで、誌面でよく怪獣の写真を載せていたんだが、「お前、あそこに入れ!」って着ぐるみの中に入らされたんだよ。怪獣のポーズを取らされてな。着ぐるみの中は臭いし、蒸れるし、凄いんだよ……あのときはもう編集なんてやってられるか! と思った。とにかく他にもこれが編集者のやることか? ってことをさせられて、会社の先輩に辞めたいって愚痴ってたら、しばらくして『冒険王』から『週チャン』に異動になったんだよ。

おお!
やれやれ。これであの意地悪編集長の重圧から逃れられると思ってホッとした一週間後に、上層部の人事異動があって『週チャン』の編集長が初代の成田さんから壁村耐三に代わったんだ。

まさかの⁉
これはいまだに覚えてるが、壁村編集長の就任挨拶があったとき「みなさんと一緒にやることになった壁村です。よろしく」と、ここまでは良かったんだけど、次に発した言葉が「ところで、このなかに一人だけ一緒に仕事したくない男がいる」と言ったんだ……オレだな。

その場にいたくないです……。
みんなオレが『冒険王』から逃げ出してきたのを知ってるから、就任挨拶の瞬間にオレの顔を見てさ……あれは一生忘れないよ。

その後はどうなったんですか?
なんにもないよ。またシゴかれる日々だよ(笑)。だけど、今から思えばそれは壁村耐三の愛のムチだったんだよ。マンガを知らないオレにマンガの編集者はこういうもんだって教えてくれたんだ。思い返すと就任の挨拶でオレに逆にやる気を起こさせたのかもしれない。あのときは不愉快だったけど、可愛がってもらったからな……多分、オレは壁村耐三の役にたった男だったと思う。仕事をしたと思うよ。

新人時代にやらかした致命的なミスで平謝り

壁村編集長になって編集部の雰囲気も変わったそうですが、どこが大きく変わったんですか?
全て変わったよ。ひとつあげると、壁村耐三はあまり原作付きマンガは連載しなかったね。梶原一騎先生とちばてつや先生の『あしたのジョー』みたいな例もあるから一概に否定していたわけじゃないと思うんだけど、マンガ家は話も考えてこそというのはあったと思う。だから、口では言わなかったけど、『週刊少年チャンピオン』は原作なしのオリジナル作品が多かった。

当時、印象に残っている出来事はありますか?
あの頃、古賀新一先生の『エコエコアザラク』の担当をしていたんだけどセリフを勝手に変えて怒られたことがあった。

えっ⁉ 普通、そんなことしないですよね? 何か理由が?
そう、いつもセリフで疑問があるときは先生に確認して修正していたんだけど、そのときは明らかに読みづらくて、こっちで変えちゃったんだ。そうしたら先生から電話がかかってきて、あの温厚な先生が厳しい口調で「どうして変えたんだ! キミはプロレスを観たことがないんですか?」と。先生はプロレスの実況アナウンサーのリズムでセリフを書いた箇所だったのにプロレスを知らないオレが「これは読みづらいな」って変えちゃったんだよ……。「あなたは私の原稿を無茶苦茶にした」と。もう、完全にオレが悪い。そのときは先生にしっかり謝って許してもらったんだけど、今もその出来事は覚えているよ。

大塚さんといえばどおくまん先生の担当のイメージも強いです。
編集長の「お前がやれ」で(笑)。そのころどおくまん先生は『月刊少年ジャンプ』で『花田秀次郎くん』をやっていて『月刊少年ジャンプ』の作家のイメージだったんだけど、彼は最初から出来上がっていたマンガ家だったね。なぜウチで描き始めたかはわからないけど、『月刊少年チャンピオン』で『暴力大将』、『週刊少年チャンピオン』で『熱笑‼ 花沢高校』を描いていただいた。

どおくまん先生の作品は絵柄もパワーも凄いです。どんな打ち合わせをしていたんですか?
彼は大阪在住だったから、任せっぱなし。オレが言うことなんてないよ。『マカロニほうれん荘』をやっている時代に『暴力大将』だからな。次元が違うよ(笑)。舞台も戦中だったりするから、ここからどうしよう? とか、このキャラをこうしたほうがいいなんて言えない。よくわからないんだけど面白いんだよ(笑)。今もときどき電話するけど、相変わらず「ワシや、ワシや!」って。好漢だよ。

どおくまん先生の影響は『チャンピオン』にとって大きいですよね。『WORST』の高橋ヒロシ先生もどおくまん先生好きを公言されていますし。『らんぽう』の内崎まさとし先生も大塚さんが担当ですよね?
内崎先生が持ち込みに来たときに、ちょっと気になったから壁村さんに原稿を見せたんだよ。オレの個人的な感想でいえば、絵がまだまだだから時間がかかるかなと思っていたんだけど、しばらくしたら「大塚、お前が原稿を見せてくれた新人、あれ連載しろ!」、「え? マジですか?」って(笑)。閃いたんだろうな。当時は『がきデカ』も『マカロニほうれん荘』もあった時代だけど、壁村耐三にはもう次、次という意識があったんだろうな。

『らんぽう』は70年代末から80年代中期を支えるヒット作になります。
一応、トップをとったはずだからな。アニメにもなったんだよな。

『週刊少年チャンピオン』が全少年誌のなかで最大部数を記録したときのことを覚えていますか? 編集部内はめちゃくちゃ盛り上がったのではないですか?
パーティーやったわけじゃないし。普段どおり、なんにも変わらないよ。それに当時は編集部内でも壁村派とアンチ壁村派があったりしたし、いろいろあった時期なんだよ。

え? 初耳です。そういう話はぜひ聞きたいです(笑)。
仁義なき戦いじゃないけどさ、誰がどうとかは言わないけどさ……。

大塚さんはどっち派だったんですか?
オレ? オレはそりゃあ壁村耐三にベッタリだよ(笑)。この人となら死んでもいいやと思ってたもん。

新入社員のころには逃げ出したのに……(笑)。一緒に働いていくうちに心境の変化があったのでしょうか?
フフ……なにしろよく飲んだからな。「紅」にいる壁村さんから編集部に電話がかかってきて、「ちょっと来い!」「今日、締め切りです!」「いいから飲みに来い!」って。薫陶を受けたね……フフ。

まさに映画の『仁義なき戦い』に出てくるような世界ですね(笑)。
壁村さんも映画見てたんじゃないかな? 広能昌三に影響を受けてたんじゃないかな。わかんないけど(笑)。

なぜ壁村編集長時代に大きく売り上げを伸ばすことができたのでしょう?
それがわかれば苦労はないよ(笑)。酒も飲んだけど、仕事の鬼だったことは間違いない。ただ、運が回っていたことは確かだな。やること全てが当たったから。そのあと就任したのがオレの同期の阿久津さんだよ……あの人は『日本沈没』や『がきデカ』、『マカロニほうれん荘』と大ヒット作を作った名編集者だけど、編集長になったときにはずいぶん看板作品が終了してたから……大変だったと思うよ。巨人のV9時代のあとを引き継いだ長嶋茂雄監督とダブって仕方がない。

大塚さんはいつまで『週刊少年チャンピオン』編集部に?
編集長が阿久津さん、神永さんと代わって、その後に神永さんと一緒に『週刊少年チャンピオン』を出たのかな?

大塚 公平 ● おおつか こうへい

1947年東京都生まれ。上智大学卒業。1970年に秋田書店に入社。『冒険王』を経て1972年に 『週刊少年チャンピオン』へ。1985年に『ボニータ』移籍。1986年に『プレイコミック』編集長に就任。
1994年より『週刊少年チャンピオン』編集長。現在は映画評論家・二階堂卓也としても活動中。

『プレイコミック』を再生 
キーワードはオトナが好きなもの

その後、大塚さんは『ボニータ』で少女マンガを経験し、男性マンガ誌『プレイコミック』の編集長になられます。
オレに少女マンガは……まあ、あまり語れないな……。1年もしないうちに社長に呼ばれて、『プレイコミック』の編集長をやってくれと。しかも、「あの雑誌、売れてないから潰せ」と言うんだよ。

ええっ? どういうことですか?
オレはその言葉を“好き勝手にやっていい”、“潰してもいいくらいの覚悟でやれ”というメッセージだと受け取って、「わかりました!」と。なにしろオレはそのとき30代なかばだったから、自分が読みたいものを作ればいいんだと割り切って、好き勝手やらせてもらった。

どんなことをされたんですか?
結局、自分の好きなことをやるしかないと思ったから、“セックスとギャンブル”というテーマを作って、どんどん新連載をはじめた。『週刊少年チャンピオン』で『燃えろ!一歩』をやってた堂上まさ志先生がパチンコ好きというのを聞いたから『銀玉マサやん』をはじめて、『未来警察ウラシマン』の作画をやってた乾はるか先生がお色気ものが描けそうだということで『お元気クリニック』を連載してもらった。乾先生にはその後に週チャンで『乱丸XXX』を描いてもらったな。とにかく、作家さんたちはみんな頑張ってくれた。

結果的に『プレイコミック』は部数を上げてヒット作もでました。そんな中で7代目『週刊少年チャンピオン』編集長へ就任されることになるわけですが当時のお気持ちは?
一回、断ったね(笑)。だってどれだけブランクがあったと思う? 10年くらいあったんじゃないか?

歴代の編集長も同じニュアンスのことを言われていました。
47~48歳だったんじゃないか? そのころには編集部に沢(9代目編集長)とか世代が違う若い連中が入ってきてて、これは抵抗があると思ったよ。でも、まあ仕事だからな(笑)。

編集長を引き受けたときに考えられていたことは? 『プレイコミック』では大胆なテーマの基に改革を行われましたが、『週刊少年チャンピオン』の改革テーマは?
それはなかった。ただ、この作家ならこういうのを描いたほうがいいと思うマンガ家がいたからそのアイデアを担当編集者に提案するようにした。

例えば? どの作品ですか?
『鉄鍋のジャン!』の西条真二先生とかな。『となりの格闘王』を連載していたんだけど、彼にはもっとハマるジャンルがあるんじゃないかと思って、何気なくキャラクターの頭の上に料理人のコック帽を被せてみたんだ。そうしたら思いのほか、似合ってたから、これは料理マンガがいけるんじゃないかって。

ええ? しかも『鉄鍋のジャン!』は中華料理ってところも新鮮でした。
料理マンガはそれまでもいろいろあったけど、中華は珍しかったからね。あと、オレが中華の料理人と知り合いだったから監修をしてもらえたというのもある。

主人公の秋山醤のキャラクターも、正義感あるキャラクターではなく、悪人ってところも斬新でした。
うん、それで思い出したけど、壁村耐三の教えのなかに「他のマンガと同じことをやるな!」「ウチは『マガジン』にも『サンデー』にも『ジャンプ』にもなれない。だから『チャンピオン』にしかできないものをやれ!」というのがあったから、普通の人間じゃなくて、悪人の主人公にするように言ったんだと思う。

競馬、競輪、麻雀、パチンコ、海賊……
少年誌とは思えない作品が揃う

確かに大塚編集長になると、ちょっと週刊少年誌ではやらないようなジャンルのマンガが次々と登場します。競馬を題材にした『優駿の門』、競輪の『輪道―RINDO―』、麻雀の『麻雀鬼ウキョウ』、パチンコの『ジャンジャンバリバリ』、海賊を主人公にした『フルアヘッド! ココ』など、かなり少年誌のイメージから逸脱するような作品が並んでいます(笑)。
他とは違うだろ? 米原秀幸先生は、それまで『ウダウダやってるヒマはねぇ!』で不良マンガを描いているイメージだったんだけど、オレは西部劇とか海賊ものが好きだったから、米原先生に海賊ものに興味ありませんか? って聞いたんだよ。そうしたら、先生がノッてくださって。『フルアヘッド! ココ』は本当に面白かったと思うな。

米原先生にインタビューした際、不良ものを描いてくれってオファーばかりだった中、唯一、大塚さんが違うアプローチをしてくれて、編集部の反対を押し切って応援してくれたと聞きました。
彼の絵で海賊ものを読みたかったんだよ。

『優駿の門』のやまさき拓味先生も大塚さんが連載にGOを出したとか?
先生が以前、4回くらいの読み切りで馬をテーマにした作品を描かれていたから、担当に競馬のマンガを描いてもらえと伝えたんだ。

それが『優駿の門』に繋がったんですね。大塚さん時代に連載がはじまった作品の中には、みさき速先生の『特攻天女』や、樋田和彦先生の『京四郎』、小沢としお先生の『フジケン』、能田達規先生の『おまかせ!ピース電器店』など、90年代の『週チャン』を支える作品も多く生まれました。
『おまかせ!ピース電器店』は、『鉄鍋のジャン!』とかアクの強い作品があったから、ほんわかムードのやつが読みたいと思って能田先生にお願いした。小沢としお先生もいい作品描いていたな。2作品とももっと大ヒットしてもよかったと思うんだけどな。

そして一番の衝撃といえば、『ドカベン プロ野球編』がはじまったことです。まさかプロ野球選手になった山田たちと再会できるなんて思いませんでした。どうやって水島先生にプロ野球編のアイデアを伝えたんですか?
あれは完全に水島先生サイドからだよ(笑)。当時、先生は『おはようKジロー』を描かれていて、そろそろ新作に変えてはどうですか? とオレの頭のなかにあったアイデアを先生に伝えたんだ。そしたら「実はやりたいことがある」と。そのときは詳しく聞けなかったんだけど、ある日、日刊スポーツに「ドカベン、プロ野球へ」ってプロ野球編をはじめる記事がスクープされていたんだよ。あれにはビックリしたね(笑)。

本当のスクープだったんですね!!
こっちは新作が『ドカベン』ってことも聞いていなかったから、社長に呼び出されて「どうなってるんだ!」と。「まさか他の雑誌じゃないだろうな?」と。もう、真っ青になって水島先生のところへ飛んでいったら、「キミは優柔不断だから、一発脅かしたんだよ。ハハハ(笑)」と言われて……あのときは肝を冷やしたね。だけど、『ドカベン プロ野球編』は面白かったなあ。かなり話題になったんだよ。

誰がどの球団に入るか? ライバルたちはどこに入るのか? マンガ界どころか、まさに社会現象でした。
単行本1巻が出たときの売り上げは秋田書店史上、最高益だったんだよ。

大塚編集長の攻め手が続々と成功している印象です。
いいことばかりじゃないよ。誌面改革をしなければと思ったオレは、当時人気だったけど長期連載だった『本気!』の立原あゆみ先生に連載終了をお願いしたんだ。ところがそれが良くなかった。終了した瞬間に部数がみるみる下がっていった。こりゃいかんと思って、また立原先生のところへ伺って、もう一回、『本気!』をやってくれませんか?と。

立原先生はなんと?
そりゃあ、舌の根のかわかないうちに何を言ってんだと激怒されてさ。当たり前だ。だけど、そのときにいろいろお互い言いたいことを言い合って、それで仲は深まった。連載をはじめるのも終わらせるのも難しいよ。特に長期連載を終わらせるというのは、長い間、愛した女性と別れるようなもんだから……それまでの歴史で有形無形のものがあるから……いつかは言わなきゃいけないけど……ツラいよ。

『週チャン』都市伝説に迫る 
表紙の花冠の謎を解け!

話は大きく変わりますが、大塚編集長時代の表紙には花冠を被った女性が数多く登場します。アイドルやタレントさんなどが決まって頭に花の冠をつけているんですけど、大塚編集長の指示だったんですか?
うん? なんだ? 知らないよ……え? オレの時代だけなの(笑)。命令した覚えはないなあ。

現役のチャンピオン編集部の間では大塚編集長の好みだってことになっていますが……。
おいおい。オレはそんなこと言わないだろ? でも、オレが言ってないって保証もないな……
オレが言いそうっちゃあ、言いそうだからな……フフ(笑)。

否定も肯定もせずってことにしておきます。大塚さんの編集長時代は1994年から2002年まで8年間でした。長かったですか?
あっという間だったけど、やり残したことはないね。もちろん、さっきも言ったけどなんとかしたかったって先生や作品はあるよ。だから、小沢としお先生や能田達規先生にはもっと何かできたと思う。何かいい企画を出して爆発してもらいたいと今でも思っている。編集者はただ原稿を取ってくるだけでなく、漫画家が爆発できるアイデアを伝えることができる存在だと思う。砂糖ばかりじゃなくて、胡椒をかけるとかさ。そういうのが少しでも漫画家の閃きに繋がればいいなと思う。

編集者とマンガ家の関係性は、それこそ数えきれないドラマがあるんでしょうね。さて、最後の質問ですが、50周年を迎えた『週チャン』に言いたいことはありますか?
新しいものをはじめてください! それだけ!!

大塚編集長時代に連載がはじまったおもな作品