「4P田中くん」原作:七三太朗先生
レジェンドインタビュー

光る汗、くじけぬ心。そして掴みとる栄光…!
少年スポーツ漫画の立役者、
七三太朗先生が週チャンに帰還!!

野球の名門高校に、同姓同名の勘違いで入部してしまう田中球児。
そんな彼が不屈の精神でエースに登り詰める姿にかつての少年たちは心を震わせた!! 
10年間連載を続けた大作の誕生秘話、
そして川三番地先生とのタッグの真相が語られる!!

連載を一度断るも…熱望され、実現した全51巻の超大作

昭和六一年(1986年)、高校野球界きってのスターだったKKコンビ(桑田真澄・清原和博)がプロ野球界でも新人らしからぬ旋風を巻き起こし、新時代への幕開けとなったこの年に連載開始。その後、10年間連載を続け、単行本51巻という大作となった『4P田中くん』の原作者・七三太朗先生に話をうかがった。
「そもそも『少年チャンピオン』との出会いは、ちょうど『モーニング』で連載した作品があったんだけど、漫画家、編集者との相性やらでいろいろと苦しんでいたの。『月刊少年ジャンプ』では高橋広の『イレブン』を連載していて、てつや(長兄)ともやっていて、そんなときに秋田の人から連絡があって一度会ったんだけど、『とてもじゃないけど、連載は難しい』って断ると、“もう一回だけ会いましょう”となった。それで2回目に会うときには、『モーニング』の連載を終わりにすることが決まっていたから『できますよ』ってなった。もうギリギリなとこだったな」

七三太朗先生といえば、巨匠ちばてつや先生の末弟であり、『おれは鉄平』『のたり松太郎』『あした天気になあれ』、ちばあきお先生の『キャプテン』『プレイボール』といった名作の原作を手がけるなど、漫画界に多大な功績を残したレジェンド。作画の川三番地先生は、もともとちばてつや先生のアシスタントということもあって、原作者には七三太朗先生をぜひにと熱望していた。
「どっかで聞いたんだけど、『イレブン』で一緒にやった高橋さん(高橋広)と川さんが一緒に飲んでいたときに、高橋さんが『わりと自由にやらせてくれるよ。ものすごくやりやすかったよ』って言ったらしくて、それがきっかけになったんじゃないの。後で苦しむことになるとも知らずに(笑)」

こうして、原作・七三太朗、漫画・川三番地による『4P田中くん』が誕生。

ストーリーは、高校野球界きっての名門・栄興学園にひとりの男が入部するところから始まる。
“10年に一人の逸材”「田中球児」が栄興学園に入る……はずだったが、実は同姓同名の超運動音痴の別人「田中球児」だった。監督は手違いで入部してきた球児を退部させようと手を尽くすが、尋常じゃない体力と不屈の精神でチームの中心選手となり、甲子園出場を目指していく──、人並み外れた能力を持つ主人公が成長していく過程を描くのが既存の野球漫画だったが、箸にも棒にもかからない平凡な子が努力に努力を重ねて甲子園を目指す姿は斬新であった。

「水島先生の名作『ドカベン』とかあるけど、『キャプテン』『プレイボール』をやったときも『巨人の星』とか野球漫画は読まなかった。同じものができるわけねえんだという気持ちもあるし、そっちに揺さぶられるといけないからあまり触れないようにしていた。例えば、データ野球とかいってインターネットでいろいろ情報を入手してるでしょ! そんなもんか? 人間はそういうもんじゃねえだろっていうのは思う」

影響されたくない思いで、あえて野球漫画を読まなかった。むしろ、読まなくても自分が手掛ける作品は今までにないものになるという自負のほうが強かった。
「川さんはもともとギャグ漫画やってたから、それを生かそうとして笑いを取り入れたような気がする。あの人の持ち味を生かさない手はないと。コンプレックスを上手く描くのが上手。栄興学園は名門だからさ、みんな凄いのが入ってきてね〜」

努力なしではサクセスしないけど、要はやり方が大事

80年代後半、高校野球はまだまだ前時代的な練習風景が当たり前で、トップクラスの強豪校のみが取り入れていた科学トレーニングを克明に描いている。
「科学トレーニングは取り入れていた。名門だからね。そういうのは川さんが考えてくれた。川さんはどっちかというとオタクに近いくらい野球に詳しい。自分は本に書いてあることが本当とは信じてないよ(笑)。日々変わる技術や理論を疑ってかかるタチなもので。そういう部分では彼の力を借りて、成長できるためのトレーニングを積んで田中球児が努力をしていく姿を描く……、どんな奴でも努力なしではサクセスしないけど、要はやり方が大事だってこと」

95年野茂英雄がメジャーデビューし日本にメジャー旋風が巻き起こり、主人公の田中球児もトルネード投法やジャイロボールなどを駆使し、時代背景と大きくリンクしながらストーリーが進められる。
「時代背景を意識しないようにしてた。あきお(三男)と『キャプテン』『プレイボール』をやっていたけど、人間の根幹の部分をどう描いてどう躍動させるか。高校野球はトーナメントだから、試合に負けたらお終いでしょ。例えば、三回戦、四回戦で必ず負ける学校からなぜかわかんないけどプロに続々いく奴がいる。その学校はプロに行かせるためには結果なんかどうだっていいわけだ。今、データベースで見ても、大阪桐蔭でもプロへ行くのはコンマ何パーセントだと思うんだけど、例えば3パーセントをも超える名もない学校が存在していたら、一体何を教えてんだろう? って思うよね。そういうのがあったら面白いだろうなっていう好奇心からネタは生まれる」

俺の生きる道というよりも、身の回りに漫画があったから

これだけの長期連載になってくると、人知れない苦労も数多くあったに違いない。
『プレイボール』『キャプテン』は長いし、てつやの『おれは鉄平』『のたり松太郎』も長くて、全部付き合わされたね。俺は製本になってもなるべく読まないようにしてんだけど、あるときファンレターにまったく同じ展開のストーリーがあることを指摘されて、読んでみると“あっ 本当だ!”って(笑)。同じものは使わないようにと、編集が俺に注意してくれたんだけどね。時々前のも読み返してくれとも言われた。きっと彼らも思ったんだろうな、なんか似たようなものが出てきたぞって」

細かいことを気にせず、豪胆な性格な様は、主人公の田中球児とどことなく似ている。
「川さんは野球をよく知ってるから、細かい部分はやってくれるよ。俺、絵コンテのようにネームを書いてたから。なんで絵コンテで書いたかっていうと、シナリオで書くとブクブク膨らんじゃうんだよね。セリフを吹き出しに入れるためには、ある程度整理しなくちゃダメ。マンガのセリフは省略が命と思っているもんでね」

シナリオで書くと、どうしてもセリフの量が多くなり、ストーリーが長くなる嫌いがある。そのため吹き出しに入れるセリフが膨大にならないよう絵コンテで書いた。絵コンテで書くのはいろいろな意味で整理されて一石二鳥だった。

「インタビューで『少年チャンピオン』の印象はってよく聞かれるけど、俺、読んでないもん。『少年マガジン』で『おれは鉄平』やっているときもほとんど読んでない。『プレイボール2』が始まるときも『最終話の続きから始まりますから』って言われて『どうやって終わったんだっけ?』って聞いたんだから。『あした天気になあれ』の2が始まるときも漫画家さんから電話があっても『自由にやったら』って答えた。そもそも原作者になった理由というのが、これが俺の生きる道というよりも、身の回りに漫画があったから。相談に乗ってるうちに仕事になっちゃったんだよな」

平然と『少年チャンピオン』を読んでないと言いながら笑い飛ばす豪胆さと、江戸っ子気質の憎まれ口を叩きながらも無邪気さを併せ持つ七三先生。
「今年『少年チャンピオン』が50周年かぁ。雑誌が試練の時期だけど、絶対に目は続くからさ。インターネットとかで読んでいる人がいるし、そういう人たちに向けてチャンスだというようなことをね。雑誌の形から入るのかわかんないけど……、あ、『チャンピオン』の読者にだっけ? これからもどんなもんが出てくるか楽しみっていうようなことかな、読んでないんだけど(笑)。うーん…。こういう時てつやは歯の浮くようなことをうまく言うんだよな(笑)」

自ら「下町の照れ屋」と称しながらも、ちば四兄弟の末弟として兄の“てつや”、“あきお”のブレーンを担い、そして名作を生み出し続けた。また漫画家川三番地と組むことで『4P田中くん』が生まれ、川三番地先生は名実ともに一流の仲間入りをした。型破りな性格ながらも、編集者からも漫画家からも愛され続ける七三太朗。一風変わった“作家”であることは間違いない。

七三太朗●なみたろう

1944年10月23日生まれ。1986年に週刊少年チャンピオンにて
「4P田中くん」の連載を漫画原作者として開始。
漫画家のちばてつや先生、ちばあきお先生を兄に持つ。
爽やかな努力を描く名作スポーツ漫画を数多く生み出した。

「4P田中くん」漫画:川三番地先生
スペシャルメッセージ

数々の名作野球漫画をその腕で
生み出してきた!! 七三太朗先生の
最強のパートナー・川三番地先生からも
メッセージが届いたぞ!!

私は高校時代、町の下宿先から通学していました。家賃は米で支払うというほど貧乏でした。マンガが大好きでも毎週買って読めません。クラスメイトの女の子(3〜4人くらい?)がマンガを買っては見せてくれました(笑)。『ジャンプ』、『マガジン』、『サンデー』と全誌読めましたが、あるときから女子全員が『チャンピオン』になったのです。それくらい面白かった。「死刑♡」「これ面白いよ」なんて絶大な人気の「がきデカ」「魔太郎がくる!!」「エコエコアザラク」もちろん「ドカベン」「ブラック・ジャック」などなど、圧倒的に面白かったです。『チャンピオン』に完全に「ハマリ」ました。

27歳のとき、『チャンピオン』から週刊連載の話をいただきました。それに対して「野球マンガを描きます。原作は七三太朗さんじゃなきゃやりません」と言ったんです。他の原作者の案もありましたが、「七三さんじゃなきゃイヤだ!」と「ゴネ」たことで無理に七三さんを口説いていただきました(七三さんは他にも連載を抱えており、相当困ってたようです)。なんとか七三さんにも承諾を得られ、『4P田中くん』が生まれました。

内容は七三さんの原作に従い、私の込める想いは、健気に思い切り頑張る少年!! 身長153センチのチビ(私の高一時代の身長で主人公を設定)だけどタフ!! ハンデがあっても『努力』で乗り切る!! 読者に勇気を与えるんだ!! その一点で描きました(他にもいっぱいある笑)。

私にとってストーリーマンガ『4P田中くん』は、初挑戦でした(ギャグ漫画家でしたから)。とにかく無我夢中で客観視できるほどの余裕はない。そんなあるとき編集さんが主人公の田中くんの顔を見て「あ、この顔いい!」、「この顔を描けたら、このマンガ大丈夫だ」(新連載第2話、窓の外を眺める主人公)と言ってきた。さらに「田中くんの背中で今の悔しさ出てる。なかなか描けないぞ」(ライバル一色との初対決の第2巻でこっぴどくやられるシーン)、「ロング絵だけど伝わってくる。初戦に賭ける想いが」(合宿所の俯瞰のバット振り)……なんでもかんでも乗せられてその気になって描き続けていたら、連載10年、51巻にまでなっちゃいました。凄いですよね。

いろいろなことがありましたが、一番きつかったのは連載2年目、当時28歳、8日間一睡もしませんでした。飲まず、食わず(1日7本ほどのリポビタンゴールド)でトイレも3日に一度くらい、7日目は15分だけ目をつむって横になった。8日目は知人の結婚式に行ったがヘトヘトで何も食べられない。5日間寝ないのは当たり前。とにかく、面白いものをと考えると寝られない。才能ないから、ずっと考えていました。

ライバルは『本気!』、『グラップラー刃牙』であり、読者からの人気投票のランキングが常に気になっていたこともあってか、1位になったときは一番の励みになりました。

高校時代、チャンピオンを楽しく読ませてもらい、その10年後『4P田中くん』を連載させてもらう立場になろうとは思いもしませんでした。50年の中に私も参加させていただいた「奇跡」に感謝しております。そして今後の51周年から読者に夢を与えてくださる少年誌でいてください。微力ながら応援しています。

川三番地●かわさんばんち

1957年1月15日生まれ。ちばてつや先生のアシスタント出身。
週刊少年マガジンの「男ぞ!硬介」にて連載デビュー。
「4P田中くん」以降、七三太朗先生とのタッグの仕事が中心になった。

インタビュー・文・写真/松永多佳倫

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