2019.10.17

“京四郎” ほか樋田和彦先生
レジェンドインタビュー

信州上田を舞台に、京四郎とその仲間の
ハッピーワイルドライフ満開!!名作ヤンキーマンガ!!

初めて買った雑誌は週刊少年チャンピオン

ハチャメチャなギャグとリアルなケンカ描写の絶妙なバランスで、90年代後半のチャンピオンをアツく盛り上げたマンガ『京四郎』。その作者である樋田和彦先生にアンケート取材をお願いし、気になる質問の数々に答えていただきました。デビューのきっかけは? 京四郎のモデルは? などなど、今だから話せる連載当時の裏話が明らかに!?

少年時代の思い出を教えてください。
「長野県上田市の、かなり山奥の地区の出身で、少年時代はカブト虫、クワガタ捕り、魚釣りに明け暮れていました。そのうちカブト虫、クワガタを売るようになり、少年の頃からかなり儲けていました」
「小学四年生の時なので……十歳の時ですか!? 小学校で『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ先生)が大流行したんですよ! それを友だちから見せてもらってからハマリました。
初めて買った雑誌は週刊少年チャンピオン。単行本は『マカロニほうれん荘』の4巻でした。当時、結構女性の裸が描いてあったので、小学生には刺激が強かったです(笑)。

週刊少年チャンピオンとの出会いを教えてください!
『マカロニほうれん荘』以外にも『らんぽう』(内崎まさとし先生)、『すくらっぷ・ブック』(小山田いく先生)も好きでした」

マンガ家になろうと思ったきっかけを教えてください。
「高校卒業後、いったんはコックになりましたが、若い私には退屈でした。その後、職を変えてもおもしろくなく、人生もうまくいかず……。『こうなったらどうなってもいいや!』と思い、本当になりたかったマンガ家を目指してみようとダメ元でチャレンジしました」

デビューにいたるまでの道のりを教えてください。
「最初はいろいろな出版社へ持ち込みました。しかし『これ描いたの何作目?(=下手ってこと)』『他の出版社へ持って行ったら?』『じゃあ忙しいのでもういいかな?』など、まったくおもしろがってもらえず……。初めて『おもしろい』と言ってくれたのが沢さん(週刊少年チャンピオン・沢考史九代目編集長)。その一言で持ち込みはチャンピオン一本になりました。画力を鍛えるために、最初は他社の作家さんのアシスタントをしていましたが折り合いが悪く、辞めたい旨を沢さんに話したらすぐに浜岡プロ入りが決定しました」

浜岡プロとはもちろん、『4年1組起立!』や『浦安鉄筋家族』でおなじみの浜岡賢次先生のスタジオのこと。浜岡先生のもとでメキメキと画力を上達させた樋田先生は、チーフアシスタントとして腕をふるいながら、みずからの作品をチャンピオンに投稿、みごと第41回(1993年下期)新人まんが賞で入選を果たしました。
「その作品にはもう京四郎が出ているんです。選評は京四郎のキャラとギャグを褒めてもらいましたが、画力や構成はほめてもらえませんでした(笑)」

浜岡賢次先生アシスタント時代のエピソードを教えてください。
「『浦安鉄筋家族』が大ヒットしたら、給料が2倍以上に上がったんです。あれは大感激しました」

『京四郎』のアイデアを思いついたときのエピソードを教えてください。
「丸サングラスのヤンキー野郎……とにかく王道ではないタイプを主人公にしたいと考えていましたが、担当編集さんは一発でこのキャラを気に入ってくれました。私自身、不良高校出身でしたので、リアルさと不良ギャグに担当編集さんは喜んでくれましたが、私はネーム(=絵コンテ)が弱く、ネーム作りはかなり鍛えていただきました」

樋田和彦●ひだ かずひこ

長野県出身。「浦安鉄筋家族」で2代目チーフアシスタントを務める。浜岡プロを退社後、1995年に週刊少年チャンピオンで「京四郎」を連載開始。全25巻のヒット作となった。その後「戦士は眠らない!?」や、ヤングチャンピオンで「新宿同盟」も執筆。

学生時代の思い出で、のちに『京四郎』の中にも実際、使われたエピソードはありますか。
「カンパ(=不良の先輩のお金集め)やボンタン(=改造学生服)をはく苦労は学生時代、実際にありました。昔は無茶苦茶な先輩がいっぱいいましたから……。
単行本3巻で緑川が田んぼに落ちた時、バイクよりもエロ本を心配したのは実話ネタです。昔ってエロ本の価値が高かったんですよ(笑)。
24巻の、小宮山が自衛隊に入る話もかなり実話ネタが入っています。
バイクは、私が『乗れればいいや』の人間で、バイクいじりのシーンとか出したくても知らないので、マンガに出せませんでした。
不良ファッションは学生の時、私はシャレていたほうだったので本当はもうちょっと京四郎たちをオシャレにしたかったです。
誰も描いていない不良マンガにしたかったので、武器のことはすごく調べ、こだわっていました。その中でも新聞メリケンは超GOODでしたね!
7巻の、京四郎VS緑川VS鬼頭のところは、京四郎が武器を出しまくるんですが、あの話はお気に入りです。うまくいきました♪」

ヤンキーがケンカで使いそうな武器の数々なんて、とても想像だけでは描けないはず。となれば、当然これもきくしかない!
『京四郎』を描くにあたって、どのような方を取材されたのですか?

「本当にヤバイ方々をたくさん取材させていただきました。スミマセンが、これだけは言えません……ヤバすぎるので(笑)」

ごもっともです(笑)。
『京四郎』に登場する人気キャラクターたちのモデルを教えてください。

「佐倉京四郎は高校時代の親友Aをモデルに、私の夢を加えました。緑川誠には高校時代の親友Bに、“次元大介っぽさ”を加えました。西山麗子は高校時代の学校ナンバーワンのイイ女だった人(私はフラれた)に、私の夢を加えました。
この三人が、中学編になったとたん動く動く……作者自身がいちばんうれしかったです」

読者からの声でうれしかったもの、記憶に残っているものを教えてください。
「熱いファンレターをくれたのは、実は男性よりも女性でした。小学生からのファンレターも多かったです。
 そして全国の不良少年からも……ちょくちょく脅しのTELをいただいていました(笑)」

『京四郎』という作品を通して読者に伝えたかったことを教えてください。
「読者に伝えたかったのは『いつでもハッピーに、ポジティブに生きようぜ☆』です。タブーはありませんでした。なんでも描くつもりで作っていました」

連載中、もっとも大変だったことはなんですか?
「当時、暴走族や、地元の不良の先輩で私の住居を探しているヤツがいたらしいので、つねに京四郎と同じ武器を持ち、襲われたら返り討ちにするつもりでした(笑)。
あと強烈なファンからストーカー行為を受けたこともありました。このファンからは逃げ回りました(笑)」

ライバル視していた作品があれば教えてください。
「やはり『特攻天女』(みさき速先生)は意識していました」

チャンピオン作家との思い出を教えてください。
「実は、交流はほとんどなかったです。やはり新人作家はギリギリで、余裕がありませんから……」
「最初の担当編集さんとはよく本気でケンカしてました。私に実力がなかったせいですが、無茶苦茶追い込まれましたから……。本当に打ち合わせ中、ぶち切れてました。
とくに単行本8巻くらいまではネーム(絵コンテ)が早く作れなくて……。
担当編集さんに早朝夜中かまわず1ページごとにネームをFAXで送り、たたき起こしてOKをもらい、ペン入れをして『京四郎』を作っていました。
本当に私はヒドイやつだった。担当編集さんゴメンナサイっっ!
しかし8巻くらいまでは本当ギリギリで……毎日一番高いユンケル2本飲んで、2時間睡眠で、ハリを50本打って仕事していました」

聞いているだけで胃が痛くなりそうな修羅場体験ですが、言い換えればそれくらい樋田先生が身を削り、魂を込めて描かれていたからこそ、その熱が全国のチャンピオン読者へ届いたのではないでしょうか。
そして、ラストはやはりこの質問で締めくくりましょう。

最後に、50周年を迎えた『週刊少年チャンピオン』へのコメントをお願いいたします。
「週刊少年チャンピオン50周年おめでとうございます。現在活躍中の作家の皆様、編集部の皆様、この仕事は本当に大変だとは思いますががんばってください。
約20年前のマンガ『京四郎』を、今またネットマンガで若い方に読んでいただいているのはうれしいかぎりです。
実は最近、樋田和彦公認の京四郎公式ツイッター、インスタグラム、ライブドアブログを開設しました。そしてラインスタンプも現在製作中です! 皆さんぜひチェックしてくださいね!!」

ヤンキーマンガの傑作『京四郎』。そのページを開けば、キミも誠のような親友、麗子のような彼女が欲しくなることうけあいです!