「750ライダー」石井いさみ先生
レジェンドインタビュー

あの時、日本中の少年がナナハンとツナギに憧れた。
大ヒット長編バイク漫画の巨匠からの激励!!

「750ライダー」はホンダ・ドリームCB750FOURに
またがるアウトローな高校2年生・早川光の青春を描いたバイク漫画の金字塔。その作者、石井いさみ先生が当時の貴重な話と、今の週チャンに向けた熱い言葉を授けてくれたぞ!!

壁村編集長の要望を受けて、誕生した「750ライダー」

昭和の高度経済成長時代真っ只中の1969年7月15日、秋田書店から『少年チャンピオン』(隔週発売)が創刊し、翌年6月24日『週刊少年チャンピオン』と改め毎週刊行。この記念すべき週刊少年漫画誌が誕生した年、マフラーを外してけたたましい爆音で公道を我がもの顔で走るオートバイ集団“暴走族”が社会問題としてマスコミを賑わせる。一般市民を巻き込む暴行・抗争事件が多発した75年、『750ライダー』が連載開始。後に大ヒット長編バイク漫画の金字塔となる作品だ。

「はじめは壁村(『週刊少年チャンピオン』二代目編集長・壁村耐三氏)さんから野球漫画を描いてくれって言われたんですけど、断ったんです。それじゃあ、おまえが一番描きたいのはなんだ? って言うから、オートバイですって答えたことから『750ライダー』が生まれました。タイトルは酒飲んでいるときに壁村さんが急に思いついて決めたんですけど、僕は正直このタイトルじゃウケないだろうなと思ってました(笑)」

石井いさみ先生(76)は懐かしそうに語る。すでに大人気漫画家の石井先生でも、『ドカベン』、『ブラック・ジャック』、『がきデカ』、『マカロニほうれん荘』といった漫画史に燦然と輝く名作を生み出してきた伝説の編集者・壁村耐三から口説き落され、タイトルも決められたら嫌とは言えない。 「小学館の『週刊少年サンデー』で掲載された『750ロック』では、編集部からとにかく人間の生き死にといったギリギリのところを描いてくれという要望が強くて、普通に死なない方向で描こうとするとダメだと言われる。でも壁村さんは『何人死のうが何人生きようが、俺が責任持つから描いてくれ』と言い、僕のやりたいように自由に描かせてくれました。そういったこともあって初期の頃は結構ハードな内容ばかりでした」

当時のオートバイは食堂の岡持ちといった商売道具として利用されており、遊戯としてオートバイを乗ることは完全な“悪”として見なされ、不良の必需品であった。 60年代前半はカミナリ族と呼ばれ、高校生の頃から走り屋だった石井先生は、ヤマハの250ccを手に入れてからカミナリ族として縦横無尽に走り回っていたため事故に遭遇するのは日常茶飯事。
「横浜の桜木町から三ツ沢公園に向かう途中にある下り坂ではみんな事故るんですよ。何遍もそこで友達の事故を見てるから。後ろで走っているバイクがスリップして横転するとヘッドライトが変な方向に光る。だから、ヘッドライトの光が少しでもズレたら、いつでも止まれるようにブレーキをポンポンと踏んでました。止まるときが一番危ない」

オートバイの危険性を嫌というほど身をもって体験しながらも、オートバイの魅力に取り憑かれた石井先生。そのオートバイを題材にした漫画を自由に描かせてくれるのだったら、少々のことは我慢しなければと思った。
「初期の読者はがきなんて、“働く道具で遊ぶな!”、“不良漫画を描くな”って感じで誹謗中傷だらけ。仕事以外でオートバイに乗るイコール不良って時代でしたから。こっちは読者をもっと煽るつもりで、ガンガン遊ばせるようにオートバイのシーンを描きましたね」

オートバイを愛する石井先生と、
盟友・梶原一騎先生との思い出。

主人公の早川光は、750ライダーccの大型バイク・ホンダ・ドリームCB750FOURをこよなく愛する竜堂学園高等学校2年生。校則校則とうるさい先公を足蹴にしながらも、クラスメイトの順平や委員長といった仲間を大切にし、愛車で走ることを何よりも好む早川光が繰り広げる青春ストーリー──初期のシリアスなストーリーに加え、早川光のアウトロー風情に憧れる読者が殺到し、人気もうなぎ上り。

石井先生は『750ライダー』を描くにあたって、ひとつだけ決意したことがあった。夜中にオートバイで大田区の自宅から江ノ島まで走って朝方に帰ってくるルーティーンを連載が始まると同時に止めたのだ。

「夜中から朝方まで走って帰ってくると腕が疲れて、絵が描けなくなるんです。だから連載中はオートバイに乗らなかった。とにかくオートバイを描くのは時間がかかるんです。資料としてCBの写真をたくさん撮るけど、実車も見ないと感覚が鈍ってしまう。CBは綺麗なモデルですから、どこの角度が一番綺麗に見える部分かを確認するためにオートバイを倒して、下から見たり上から見たりしてました。ちょっと雨が降っている坂からCBがポンと現れる絵は、ものすごくかっこいいんですから。当時、ヤマハに乗っていて対向からCBが来たら止まってCBを見惚れるように見送っていました」

オートバイを愛してやまない石井先生は当時100万以上の高額のため購入できなかったCBへの憧れもあってか、マシンの細部にわたって忠実に描かれ、硬派なストーリーと相まって、漫画関係者にも影響を与えた。
「実家の近所に梶原(一騎 故人)さんの家もあって幼馴染みでしたから、よく飲みに連れてってもらいました。

飲みに行く度に『いさみちゃん、次はどういうネタで描くんだ?』って聞いてきましたね。ある時、梶原さんに『巨人の星』と『あしたのジョー』、どっちが面白かったですか? と聞いたら、『あしたのジョー』のほうが合ってたって言うんです。それ以上何も言わなかったんですが、きっとそれはボクシングという1対1の格闘技のほうが好きだったからなんでしょうね。僕も野球とか好きでしたが、オートバイというマシンと人間の個の部分が好きでしたから、ある意味梶原さんと似ていたのかもしれません」

80年代に入ると、もはや戦後ではなく飽食暖衣の時代へと突入し、ストーリーも硬派からラブコメへと路線変更せざるを得なくなったのだ。
「読者票が伸び悩んでいたこともあってね。自分がオートバイに乗っていたときに一番良かった時代はどういうときだろう、といつも考えていたんです。あいつと競争したときとか、白バイの友達と一緒に走ったときとか、いろいろあるんだけど、どれも一瞬なんです。でも、路線変更しても、バイクに乗っていたときの思い出はほとんどネタとして使えました」

僕は『少年チャンピオン』が日本一の雑誌だと思っている

75年から85年までの10年間にわたる長期連載となった『750ライダー』は単行本全50巻刊行。
「忙しくて寝る暇もなかったが、人気があるときは寝なくても平気で、ネタを書くのが面白くて面白くて。忙しいときはアシスタントが5人いました、その中に、あだち(充)くんもいて、彼が入ったときなんか、『おい、俺より上手いやつが入ってきたぞ』と女房に言ってねぇ(笑)、本当に絵が上手かった。最後のほうは彼にほとんど描かせたくらい、それくらいキャラクターもそっくりに描いてくれました」

一口に10年の長期連載といっても決して順風満風ではなく、連載を始めた当初は「本の作り方がわかってないな」と憤慨していた時期もあり、『ブラック・ジャック』と『750ライダー』のみが依然として読み切り連載だったので疲労度がハンパじゃなく、「次の漫画を考えろ!」と壁村編集長に言われても、「考えられない」と反発したこともあった。

それでも『週刊少年チャンピオン』で描いている自負は人一倍高かったからこそ、漫画の専門店でもある秋田書店が、集英社、講談社、小学館に負けるのは絶対に許せなかったし、後塵を拝している秋田書店を自分の手でなんとかしようと誰よりも強く思っていました。
「今年でちょうど50周年ですけど、僕は『少年チャンピオン』が児童雑誌の中で日本一の雑誌だと思っていますよ。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンという順番を変え、チャンピオンという名の通り特別な一番にならないといけない。他の雑誌と違って毎週苦しんで苦しんで、もがいてもがいて、なんとかナンバーワンをつかんだこともある雑誌だからね。漫画がかっこいい、かっこ悪いとか上辺だけで考えている編集者がいたらすぐクビにしたらいい。編集者は日本一の漫画雑誌を作るんだという意識をもっと持たないと」

雑誌が売れない昨今といえども、いい作品を描けば必ず読者はついてくる。そのためにも高い意識を持って臨むべし! バイク漫画という新しいジャンルを確立し、漫画界に多大な功績を残した石井いさみ先生だからこその言葉。これはエールではなく、魂の叫びでもある。もっともっといい作品を生み出し、『週刊少年チャンピオン』が真のチャンピオンになるためなら……、石井先生の心はいまだ燃え続いている。

石井いさみ●いしいいさみ

1957年「少年クラブ」の『たけうま兄弟』でデビュー。
1975年に週刊少年チャンピオンにて「750ライダー」の連載を開始。
連載10年におよぶ長期ヒット作に。

インタビュー・文・写真/松永多佳倫

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