2019.10.10

9代目編集長 沢孝史
(2005年48号-2017年26号)
週刊少年チャンピオンを創った男たち

編集者として編集長として平成のチャンピオンを支えた9代目編集長・沢考史(現秋田書店編集局局長)が登場!!
荒唐無稽に見えて理路整然としたマンガ作りの秘訣、そこには“褒める”というキーワードが隠されていた!!

9代目は東大出身!コワモテ編集長の意外な素顔

沢さんは東京大学出身と伺いましたが、小さい頃から秀才タイプだったんですか?
嫌な感じの子どもだったと思うな~。自意識過剰なタイプで。

他人の目を気にするような?
半ズボンが似合ってると思って1年中、穿いてましたからね。これを穿いていたらカッコいいだろうって。

ずっとですか? オトナになるまで?
そんなわけないでしょ(笑)。小学生のときだけよ!

ですよね。すいません。東大に半ズボンで通っていたのかと想像しちゃいました。
どんなやつだよ! おかしいだろ、そんなヤツ(笑)。

沢さんならなんでもありかなと……勉強はできる方だったんですよね?
うーん。どうだろう? 高校は進学校で東大受験をする仲間がけっこういたので、「じゃあ僕も」って感じで受けたんです。勉強が好きというか、受験勉強にハマったっていうのはありますね。ゲーム感覚でやれちゃった感じ。

そ、そういうものですか……部活などは?
科学部に入っていましたけど、別に何をしたわけでもないですね。あ、小学生から高校生までフルートをやってました。水泳もやっていて「鷺沼のジュゴンちゃん」って呼ばれてましたよ。

ジュゴンちゃん……。
そこは気にしなくていいよ!

フルートを習っていたというのも凄いです。
父親が音楽が好きだったので、姉にはピアノを習わせて、自分はヴァイオリンを弾いて。合奏しよう、するぞ! と迫ってくるという……。

家族で三重奏ができますね。チャンピオンっぽくない絵面が浮かびます。
……恥ずかしいな……。こういう話はいらないんじゃない?

コワモテの印象の沢さんの意外な一面を聞けました。ところで、東大卒だと就職も引く手数多だったと思いますが、なぜ秋田書店を選ばれたんですか?
就職活動は大失敗でした(笑)。いろんな出版社を受けるも完璧に全滅……双葉社なんて3年かかって2回落とされていますから。

双葉社に思い入れが?
双葉社には『漫画アクション』があったんです。大友克洋先生がいて、『じゃりン子チエ』が載ってて、たなか亜希夫先生と狩撫麻礼先生の『ボーダー』、ジョージ秋山先生の『恋子の毎日』とか。いきなり『ルパン三世 カリオストロの城』の絵コンテ集を出したり。出版社としてもカッコ良かったんです。

マンガファンだったんですね。
大学に入った年に、大友克洋先生の『童夢』が出て、その帯に“いまコミックはここまできた‼”って書いてあって、“ここまできたんだー! どこまで行くんだー!”って本屋さんで興奮したのを覚えています。だから、マンガに携わることをやりたかったんですが全然、出版社に受からなくて……2年間留年しました。今から思えばあの2年間に、世界旅行とかしておけば良かったと思うんですけど……なんにもしないで毎日17時に区役所から流れるメロディを聞いてました。世の中に出て働くのが信じられなかった。

モラトリアムの代表選手のようですね。
完全にモラトリアムだったよ。

知られざる刃牙誕生秘話!! 
神楽坂の喫茶店が揺れた‼

秋田書店に入った頃のことを覚えてらっしゃいますか?
週チャンに配属だったんだけど壁村さんが編集長だった最後の頃で、1~2か月しか一緒に仕事はしていないんだけど、雲の上の人って感じだったなあ。結局、三言くらいしか言葉を交わせてないからね。それくらい当時の編集長って恐ろしい存在だった。今とは違うね(笑)。

どんな仕事を担当されていたんですか?
なんでもやりましたよ。プレゼントの発送から、写植貼り、とにかく仕事は山ほどありましたから。しかも僕が入社した頃はまだ『週チャン』、『月チャン』、『ヤンチャン』を一緒の編集部で作っていたので忙しかった。でも、仕事が終われば毎日飲みに行ってましたけどね。というより、行かないと大変なことになるみたいな(笑)。まあ、そのなかでマンガ作りのノウハウを教わっていった感じがします。

仕事と飲みでダブルで吸収していったんですね。
樋口先輩(『週チャン』8代目編集長)たちと毎日、飲みに行ってましたからね。

最初に担当したマンガ家さんはどなたですか?
『激闘‼ 荒鷲高校ゴルフ部』の沼よしのぶ先生です。先輩から担当を引き継いだときに「マンガ家さんと会うときには、絶対に何かアイデアを持っていかなきゃいけない。打ち合わせでも何か言わなきゃダメだぞ」と教えていただきました。

6代目の編集長である岡本三司さんに話を伺ったとき、沢さんはそれはそれはたくさんの企画をぶつけてきたと言われていました。
そうしないと死んじゃうって思っていました。

めちゃくちゃ熱い!
なんとしても担当作を作るんだ! という意思で頑張っていました。なので、新人発掘や他社で描いてる作家さんでも面白いマンガを描いている人は常にチェックしなきゃと焦ってました。

沢 孝史●さわ たかふみ

1965年2月14日、東京都生まれ。東京大学卒業後、1989年に秋田書店に入社。
『週刊少年チャンピオン』で『刃牙』シリーズを立ち上げ、『ヤングチャンピオン』編集部へ。
その後、新雑誌『チャンピオンRED』の創刊編集長となり、2005年より『週刊少年チャンピオン』編集長を務める。

新人発掘ってどんなことをされるんですか?
持ち込みを見たり、投稿作を読んだりですね。だけど、やっぱり新人がすぐに連載できるかといったらそれはなかなか技術的な面などでハードルが高くて……そんななかで僕が持ち込みの新人から最初に連載までいけたのは富沢ひとし先生です。新人賞で佳作をとって、それから『肥前屋十兵衛』の連載がスタートしました。富沢先生とはのちに僕が『ヤンチャン』に異動になったときにも、『エイリアン9』を連載してもらって『ヤンチャン』を支えていただきました。

新人だけでなく、他社で連載されている作家さんも追いかけていたんですよね? その流れで板垣恵介先生と出会われるんですか?
いろいろチェックしていたときに『メイキャッパー』って作品が目に留まったんです。これは面白いマンガを見つけたぞと思って樋口先輩に見せたら、「面白いじゃん」ってことになって、板垣先生と会うことになったんです。

いつ頃ですか?
入社1年目なので、1989年ですね。樋口先輩と僕とで神楽坂の喫茶店ではじめて会ったんですけど、その頃、板垣先生はサラリーマンをされながら『メイキャッパー』を描かれていて、電車のなかでペン入れをしているって話をされました。僕は入社したてですから、「へえ。凄いなあ」くらいでしたけど、今、考えるとそんなことをやりながらマンガを描いている人はいないですよね(笑)。

どんなお話をされたんですか?
戦国時代の剣客である伊東一刀斎の話をしてくれて、博識だなあと思ったのを覚えています。あと、『メイキャッパー』の単行本に自画像が描いてあって、それがプロレスラーがペンを持っている絵だったんです。それを見て樋口先輩が「格闘技、お好きなんですか?」「好きなんだけど、今の雑誌では描かせてくれないんだよ」「じゃあ、うちで格闘技ものやりましょう」って話で盛り上がりました。

最初の打ち合わせですでに刃牙の原型ができ始めていたんですね。
とはいえ、『グラップラー刃牙』の連載開始までにはそこから2年ほどかかっています。板垣先生はやる以上は絶対に成功させるという方なので、準備もしっかりしました。ちなみに、後から聞いた話ですが、板垣先生は僕じゃなくて樋口先輩が担当すると思っていたらしいですね。まさか新人が担当になるとは思わなかったって言われましたよ(笑)。

2年間、しっかり準備をして『グラップラー刃牙』が始まったんですね。
それがネームが完成して、ようやく連載するぞ!ってなったときに、板垣先生から「これじゃあ、ちょっと弱いと思うんだ」って……「もっとメジャーな感じでやらなきゃ絶対にダメだ」って言われまして、そこから第1話のネームを全部描き直されたんです。

ええっ⁉ じゃあ幻の第1話があるんですね。
たしか学園から始まったと思うんだけど、先生はそれを全ボツにして空手大会の決勝戦からスタートする第1話になったんです。

連載後の反響はどうだったんですか?
僕も板垣先生も初回からトップを取ると思っていたんだけど、週刊誌のアンケートってそういうものじゃないんですね。まず、読者は「これは面白がっていいのかどうか?」みたいなところから入るから初回は8位くらいだったんじゃなかったかな。僕も板垣先生も悔しくて、なんとか1位を取ろうと気合いをいれました。

『週チャン』編集長に就任 
刃牙VS勇次郎が実現する!

沢さんが手応えを感じた回は?
地下闘技場編が始まって鎬昂昇が出たときですね。そこで一気に人気が4つくらい上がりました。だけど、もっとやらなきゃってことで、それまで花田純一でいこうと思っていた流れを先生がマウント斗羽に変えて、そこでまた人気が上がって、あとは勇次郎が出て物語の全体像が読者に伝わったという感じです。

新入社員のときに板垣先生に会いに行った甲斐がありましたね。
幸運だったと思います。

そこから今に至るまで板垣先生との仲が続くわけですもんね。
そういえば『週チャン』の編集長になって挨拶に行ったら、いきなり「沢ちゃん、来たか! じゃあ『バキ』終わるわ!」って言われてビックリしました(笑)。

刃牙と勇次郎の直接対決が行われた凄いシリーズでした!
『範馬刃牙』をやるときに、板垣先生が勇次郎と刃牙を戦わせると宣言してくれたんです。やらないと作品がダメになると言われて、僕としてはもう、それをやってくれるのが嬉しくてね。ありがとうございます!という気持ちでしたよ。

沢さんと板垣先生の特別な関係があってこそだったのかもしれません。
先生の中で何か生まれるタイミングだったのでしょうね。

『RED』立ち上げ!車田正美先生との出会い

編集長時代の大きなトピックとしては、車田正美先生が『聖闘士星矢』を秋田書店で描くというのもびっくりしました。
車田先生との出会いは、『チャンピオンRED』を創刊してすぐの頃ですね。当時、先生は『ジャンプ』を離れてフリーで描かれていたので、『聖闘士星矢』のスピンオフをうちでやっていただきたいと思って連絡を取ったんです。そうしたら、とりあえず会おうという流れになっていろいろ話したのですが、そのときは「今はやめとこうや」ということになって。

最初は断られてしまったんですね。
まあ、そもそも無理なお願いとわかっていましたので、またうかがえたらと思っていたら、しばらくしてから「飲もうよ」と連絡をいただいて、夕方6時集合で翌朝10時まで(笑)。

そのときに連載の話は?
無かったですね、ただ飲んでただけです(笑)。で、しばらくしたらまた「飲もうよ」って。うれしくてヒョコヒョコうかがったら、車田先生から「この前、話していた星矢のスピンオフ企画だけど、あれ面白いじゃねえか、やってみっか!」って言ってくださったんです。面食らったんですけど、「ぜぜぜ…是非っ!」って。

いきなり決まったんですね。
先生も「やるなら早く! こういうのは勢いが重要だ」と。なので大急ぎで編集部に戻って、『チャンピオンRED』の創刊2号に“次号、『聖闘士星矢』開始!”って予告を出したんです。まだ作画の方も何も決まってないのに(笑)。そこからは一気に岡田芽武先生に作画をお願いして『聖闘士星矢 EPISODE.G』が始まりました。今、考えると朝まで飲んだ時に少しは面白いやつらだと思っていただけたのかも。

そして『週チャン』では、車田先生ご自身が描かれる『聖闘士星矢』の連載が始まります。
『RED』の流れもあって、僕が『週チャン』の編集長になったときに車田先生が「編集長になったご祝儀にオレが描くよ!」って言ってくださって、車田先生が『聖闘士星矢NEXT DIMENSION 冥王神話』を描いてくださったんです。

『ジャンプ』の看板作品の続編が『チャンピオン』で読めるというのは画期的でした。
反響が凄かったし、盛り上がりましたね。

米原秀幸先生が手塚治虫先生の『鉄の旋律』を原作にした『Dämons』を描かれたのもマンガファンを驚かせました。しかも『南風! BunBun』が終わって1号も間を空けずにスタートしているんですよね。
『週チャン』ではよくあることですけどね。

連載が終了して、すぐに新しい作品が始まるというのは先生方にはかなり負担があるのでは?
『週チャン』でつのだじろう先生が、『泣くな!十円』を描かれていて、それが終わったとほぼ同時に『恐怖新聞』を始められたのがカッコいいと思っていたんです。だから、米原先生にも「休み無しでやりましょう」とお願いしました。先生方は大変ですけど、すぐに好きな作家さんの作品が読めるので読者は喜んでくれると思うので。

表紙の煽り文句がヤバい!面白ければOKの精神

沢さんの編集長時代には長期連載をリニューアルするということが多々ありました。『ドカベン スーパースターズ編』が『ドカベン ドリームトーナメント編』になり、『バキ』から『範馬刃牙』、『元祖!浦安鉄筋家族』から『毎度!浦安鉄筋家族』、『無敵看板娘』から『無敵看板娘N』、『バチバチ』から『バチバチBURST』など多くの作品がリニューアルしましたが、どんな意図があったのでしょうか?
リニューアルをきっかけに作品がより多くの人に届くんです。巻数が多くなると書店に置けなくなるとか、いろいろな要素を考えて、リニューアルの判断をしていました。『範馬刃牙』や『毎度! 浦安鉄筋家族』は結果的に部数も人気も上がって上手くいきました。

上手くいかないことも?
一回、『弱虫ペダル』をリニューアルしてはどうだろう?って話をしたんですけど、変えないほうがいいという声が多かったのでやめました。渡辺先生からは「沢が危険なボールを投げてきた……」って未だに言われますね(笑)。うん、あれはやらなくて良かった。

表紙を見ているだけでもかなり冒険しているのが伝わります。美味しそうなラーメンを表紙に使ったこともありますね?
ラーメンが表紙のチャンピオンがコンビニに並んでたら面白いかもなって……。

メイン特集が「浦安激うまラーメン店ベスト6」ですからね。
全国誌なのに、浦安のみのラーメン店情報だったからな~。売れなかったんですよ。僕は売れると思ったんだけどな~(笑)。まあ、表紙はいろいろチャレンジしましたよ。人気のあるグラビアアイドルをベースにしつつ、面白いマンガが載っていますよ、と中身のコンテンツををどう伝えていくかで頭を悩ませました。小さくてもいろんな情報を載せてコンテンツをしっかり見せるようにしたり。

煽り文句もかなり攻めていて……。
ああ、それは表紙を担当する編集者のセンスが面白くてね。

“絶叫シャウト! 魂ソウル!!”とか、“はぐれ男子友情派!”とか。特に『クローバー』が表紙のときに攻めていますよね。
“絶叫シャウト! 魂ソウル!!”なんて、同じ言葉を重ねるってバカだな~って思いましたよ(笑)。『クローバー』が表紙のときは平川先生の絵がオシャレなので、ファッション誌を意識した作りにしていたと思います。

そんな遊びを許容していたのが沢さん時代の特徴だと思います。沢さんが編集長に就任した2005年以降、平川哲弘先生の『クローバー』、佐藤タカヒロ先生の『バチバチ』、安部真弘先生の『侵略!イカ娘』、瀬口忍先生の『囚人リク』、増田英二先生の『実は私は』らヒット作が続々と生まれています。
平川先生や佐藤先生らは樋口先輩の時代からデビューされているので、僕は引き継いだだけというか。彼らの2作目が当たったっていうのはありがたかったですけどね。

7代目編集長の大塚さんは、『鉄鍋のジャン!』や『優駿の門』など、コンセプトを立ててマンガを作られていましたが、沢さんのマンガ作りの方針はどうだったのですか?
大塚さんはテーマを明確にして作品を作られていて、『鉄鍋のジャン!』なら、怖い料理人の話をやってくれというオーダーを出されていましたけど、僕はそういう作り方を要求するタイプではないですね。

『京四郎』の樋田和彦先生は沢さんから異常なほど褒められたことが印象に残っていると仰ってました(笑)。
褒めるのは重要なことだと思います。その作家さんが持つ面白い部分だけを集中して描いていただくために、こっちもその一点を推しまくるわけです。褒めちぎるのは僕のマンガ作りでは当然のことになっています。

ひと言で褒めるといっても難しい気がします。
良いところを考える作業を一緒にやるって感じでしょうか。このマンガ家さんは人殺しの目を描けると思ったら、「ここですよ! 先生!」ってしっかり伝えることが大事。そこから打ち合わせが始まるのではと思います。

どこが武器なのか、はっきりさせるんですね。
編集者は担当している作家さんのマンガの魅力はなんだろうってずっと考えてるし、それが仕事です。そして、そこで出た自分の答えを作家さんに伝える。どの編集者もいろんな言葉を使うと思いますが“褒める”のは共通点だと思います。

今、編集長時代を振り返っていかがですか?
毎日がピンチの連続で……哀しいこともあったけど……それでも面白いマンガを作ろうと毎日、頑張りました。やっぱり面白いマンガを描くことは大変なことで、そういうマンガ家さんの頑張りを近くにいながら一緒にやれたっていうのは良かったです。楽しかったですよ。うん。

創刊50周年を迎えた『週チャン』への思いをお聞かせください。
『チャンピオン』には『ジャンプ』のような“友情・努力・勝利”みたいものはないんだけど、壁村さんが背中で見せてきた“常識を壊せ”とか“面倒くさいヤツがいいマンガを描くからソイツにしがみつけ”とか、“情を壊すな”とか、その精神を歴代編集長は受け継いできたんじゃないかと思うんです。そしてそれは受け継がれていくと思います。これからも少年誌らしい面白いマンガを作り続けますよ、僕らは。

ありがとうございました。

沢編集長時代に連載がはじまったおもな作品